画家 小柳優衣さん インタビュー〈前編〉

 

人気腐蝕銅アーティストの小柳優衣さんに、福福堂の編集部がインタビューをしました――それではインタビュー〈前編〉をお楽しみください!

画家 小柳優衣さん インタビュー〈前編〉

眼の前のものを何でも描いた幼少期

――小柳優衣先生、本日はよろしくお願いします。さっそくですが先生と絵との出会いについて教えていただけますか?

 よろしくお願いします。
 絵と出会ったきっかけはもう覚えていないのですが、ほんの小さい頃から私は絵を描いていましたね。新聞に挟まっているスーパーのペラペラの広告の裏にも、表にも絵を描いていました。小学校に入る前から。自分自身は気づかなかったのですが、両親がその頃の絵を箱に入れて残してくれていたんです。

絵とピアノが得意だった小学生時代の小柳さん。

 小学生に上がってから、幼稚園時代の自分の絵を見て『こんな広告の裏紙を残しておいてくれたのか』と驚き、両親の想いに感動してしまいました。絵を描くということが小さい頃から身の回りにある環境にいました。

――その頃はどんな絵を描いていたのでしょう。

 何でも描いていましたよ。人間も動物も。目の前にあるものは椎茸だって描いてましたよ(笑) 絵を描くことは得意だったものですから、何を描いても誰かに褒めてもらえました。それが嬉しかったですね。あとはピアノを弾くことが好きな子どもでした。

画塾に行きたい!その代わりに―

――中学時代は美術部だったのでしょうか。

 そうです。絵が好きなので中学校では美術部に入りました。
 中学時代にはもうぼんやりと将来の進路を考え始めていましたね。『絵を描きたい。美術系の高校に行きたい』と思っていました。でも我が家では『学校では学問を修めよう』という教育方針だったんです。ですので高校は普通科へ進むことにしました。
 大人になった今では、その選択は自分に合っていたと思います。というのも、これまでたくさんの画家の方々と接してきましたが、色んなタイプの方がいるんです。その方々の作品を見ると、一見関係のなさそうな実体験や学びが作品に反映されていることが分かるんです。

――画家さんは個性的で色んなタイプの方がいますものね。

 そうなんです。作品を制作する際、自分自身の経験から『インプット』していないと、絵を描くという『アウトプット』は薄いものになります。食べ物と同じで、自分の顎で咀嚼して消化して体に吸収できたものからしか作品は産み出せない。ここでいう咀嚼とは感受性のことです。より高い解像度で受容すること、そのための前提条件として、広い知見を持つことが大切なのです。
 だから中学時代に私にそういう選択肢を与えてくれた両親にはとても感謝しています。

――なるほど。その後、高校ではどのように過ごされましたか?

 私立自由ケ丘高等学校に入学しました。
 当時その学校は進学に特化した新体制を設置したところで、条件を満たせば3年間の授業料全額が免除されるという枠があったんです。さらに厳しい条件をクリアすると受験予備校代まで負担してくれるという!
 で、私はどうしても学校とは別に『画塾』というものに通いたかったものですから、高校の合格発表と同時に両親に交渉をしました。『学業を疎かにせず3年間特待生を維持するから、画塾に通わせてほしい』と。

――そういえば、小柳先生は福岡県知事から成績優秀者として表彰されるほど勉強ができたと聞いたことがあります。

画塾へ行くために勉強していた高校時代。お祖父様と一緒に記念撮影。

そうでしたね…良き先生方に恵まれて、新しい知識を得ていくことは純粋に楽しかったです。

高校時代、画塾で過ごした幸せな時間

――念願だった『画塾』へは通えましたか?

 はい。両親との交渉が実って高校入学してすぐ、『折尾美術研究所』という画塾に入ることができました。私にとって、その画塾での時間がとても良かったんです。

折尾美術研究所で描いたデッサンの数々。
小柳さんの類まれな描写力はここで身につけた

 手取り足取りという指導方針ではなく程よい距離感でご指導いただきました。先生からは『どれだけ時間をかけてもいい。自分で見つけなさい。』と言われました。言葉の通り、講評をお願いしても『まだ』『まだ』『まだ』と返され…煮詰まってアトリエから脱走してシクシクしたり、友人と励まし合ったり、皆で笑ったり、アトリエの看板犬が可愛かったりと、いろんな思い出ができました。
 そのようなことで、高校3年間は部活には加入せず、学校で学業を、放課後は画塾の勉強をして過ごしました。
 そして『画家になりたい』と強く思うようになっていました。

妊娠中にも画家として働いた。今では子を持つ母となった小柳さんは、『すべてのこどもたちが歓迎され、優しく見守られる社会に』したいと語る。

大学時代、朝から晩まで制作

 大学では芸術専門学群を専攻しました。芸術の専門知識を修めるとともに、教員免許を取るための勉強をする学部です。そのほか学部を横断してシラバスを組むことが出来るのが特徴で、私は心理学系の授業などをとった記憶があります。平砂宿舎は住めば都でした。

――教育学を学ぶならば『西の広島、東の筑波』と言われていますね。

 はい。しかし私は筑波大学に行っておきながら2年生の段階で教職の単位を取るのを止めました。教職の単位を取るとなるとカリキュラムが結構忙しくなるんですよ。当時の私はもう完全に画家志望で、作品を作ることに時間を割きたかったのです。

――そうなのですね。スパッと画家の道に決めた。

 そうです。大学1、2年生の頃は油絵を描いていました。特別カリキュラム版画に転向したのは大学3年生からです。それからブワーッと銅版画の世界にのめりこんでいきました。

学生時代の習作。亜鉛の腐蝕速度の実験用に制作した。『亜鉛は猛烈に溶けるので怖くてもう使えない。でも面白い素材だった!』

 自分の感覚をアウトプットする際に、ニードル(註 銅版画制作の際、銅板を彫るための尖った道具)の方が描きやすかったという、感覚的な面は大きかったですね。
 大学3年生の1年間はどっぷり銅版画の魅力に浸った1年で、実験と実践がとても楽しかったです。長期休暇中も田舎に帰省せず銅版画の工房に通い詰めました。朝、工房に着いて窓を開け制作を始める。1日中誰とも喋らずに戸締まりをして帰る、という日もありました。先輩と一緒に制作できる日は嬉しかったのを覚えています。実験がうまくいかなかったり腐蝕や刷りで失敗したりしても、とにかく制作が楽しかったです。

オール・セルフ・プロデュースで個展

――学外向けに作品発表などはされていましたか?

 はい、2009年。大学3年生の3月のことでした。私はオール・セルフ・プロデュースによる個展をすることにしました。私は大学内での選抜展や公募展の賞のようなものとはご縁がありませんでした。そこで自分でやるしかないと考えたんです。アルバイトをしてお金を貯めました。
 当時の私は単純に『個展をするなら銀座でしょ!』と考えていました。ですのでポートフォリオを携え、画廊を巡りました。企画画廊ですと大抵の場合が売上歩合ですから賃料はかかりません。今思うとアポもビジョンもなく画廊をまわったので当然の結果ですが、ご縁には繋がらず。
 そんななか銀座を周っていて、坪数が控えめで賃料も控え目な貸画廊を見つけました。それでも当時の私には大きな金額でした。会場が2フロアでしたので、友人の学生画家と折半して借りて、1フロアで個展を開催できることになりました。それでも大学生にすると高いんですよ…。

――おっしゃるとおりです。

200を超える画廊が軒を連ねると言われる銀座の街

 だから私は『この個展を絶対に無駄にしたくない!』と思いました。私は大学内の色んな所に広報を持ちかけて回りました。学内新聞にも載せてもらいました。

――頑張って宣伝をしたのですね。

 その他にも、今後取引してほしい企画画廊に案内状を送りました。以前大学の展覧会で作品を購入してくださった方にも送りました。作品を見て欲しい方々みんなに送りました。

――そうやって準備して個展に臨んだのですね。

 そうです。個展では作品がいくつか売れて、会場代を払うことが出来ました。ある企画画廊の方から『企画展にだしてみませんか?』と声をかけてもらえたりしました。そうやって次のステップに進み、手応えを感じることが出来ました。それが私の初個展でした。

――素晴らしいですね。その後はどのような活動をされたのでしょうか。

 ある版画家の方の作品が見たくて展覧会に行った際、ご本人が会場におられて、『ギャラリー上原(註 福福堂がかつて代々木上原で経営していた画廊)が話を聞いてくれると思うからぜひ行ってみて』と教えてもらったのです。
 私は暗中模索の状態でしたので、じゃあすぐそこに行ってみようと。

――常に外へ向かって働きかけていく小柳先生の姿勢はとても素晴らしいですね。

 ありがとうございます。福福堂に行って、ポートフォリオと個展セルフプロデュースの話などをさせていただきました。『2010年にアールデビュタント(註 2010年から2017年にわたって開催された公募展。後援・埼玉新聞社。企画・福福堂。審査員は教育機関ではなく、百貨店・画商・新聞社などの美術品販売の現場の者が担った)という公募展を始めるので、ぜひ応募してほしい』と言われました。大学4年のことです。
 そんな感じで私の大学生活は過ぎていきました。

真っ暗闇に差した光

――大学卒業後の活動をお聞かせいただけますか?

 2010年3月に大学を卒業しました。実は1度だけリクルートスーツを着て企業説明会というものに行ってみたのですが、会場に入ったもののすぐに帰ってきてしまいました。『今やるべきは作品発表の場をつくることだ』と確信したからです。
 とはいえお金もなくて。にっちもさっちも行かず、関東で生活することが出来ませんでした。それで故郷の福岡へ帰りました。

――先生が一番大変だった頃ですね…。

皿倉山から望む故郷北九州。

 はい。その頃は真っ暗闇でした。周囲の友人は就職して、
 「初任給貰ったけ親に〇〇買った」
 「私は○○あげたっちゃん」
という話題が出る中で、肩身が狭かったことを覚えています。半ば心が病んでいましたね…(笑)
 そんな中、かねてより情報を掴んでいたアールデビュタントに福岡から応募しました。

――そこで春蔵絵具賞を受賞されたんですね。

 そうなんです。春蔵絵具賞(註 春蔵絵具=はるぞうえのぐ。日本初の油絵具メーカー。大正時代の初めに長崎春蔵により生み出された)に選んでくださった春蔵絵具さんは、その後も銅版画制作に必要な銅版画の絵の具を提供してくださっています。当時からずっとお世話になっております。

春蔵絵具の長崎さん(左)は今も小柳作品のために特注インクを作っている。
『作品の半分は春蔵絵具さんでできてると言っても過言ではありません』と小柳さんは感謝する。

 その他、グループ展企画に出させていただくようになったのもこの頃です。
 あと、前よりもっと大きな規模で個展をするぞ!という目標がありました。2回目のセルフプロデュース個展です。会場を探して、最終的には北九州市のレストランに企画を持ち込んで交渉しました。大型のものも含め、在学中に制作したほぼすべての銅版画作品を展示することができました。

北九州市のレストランで開かれた2回目のセルフプロデュース個展には大勢のファンが訪れた。

 そこでのご縁はその後の作家活動における大きな励みになりました。福福堂の岡村さんが東京から足を運んでくださったことも感激でした。

――よかったですね。それから先生は展示が増えていったのですね。

 そうです。2011年になり、銀座の百貨店の画廊に出品させていただきました。企画画廊(ギャラリー上原)での初個展が出来たのもこの年です。この個展は画家としての大きな一歩でした。

ギャラリーで『野宿』

――さて怒涛の2012年を迎えます。個展を3つ、グループ展を2つ開くことになりますね。岡本太郎美術館でのワークショップイベントも。

 本当に忙しい1年となりました。ところが画家として駆け出しだった私は、まだ作品価格も低かったんですよ。2012年は資金が足りず、福福堂が運営していた『ギャラリー上原』に寝袋を持ち込んで寝泊まりしていました(笑)

ギャラリー上原での初個展。実は寝袋で画廊に寝泊まりするほど苦労していたが、
すぐに人気作家となっていった。

 個展会期中、日中はギャラリーのお客様の前で公開制作をします。接客をして1日が終わると夜は近所の銭湯に行きます。そして帰ってギャラリーの床に寝袋を敷いて寝る。朝起きたらギャラリーで身支度をして。その後、床をきれいに掃除すると会場がオープンします。そしてお客様に接客をするんですよ。何事もなかったかのような顔をして(笑)
 当時は移動も節約して夜行バスでした。忙しすぎて家に帰ることも出来なくて。

――すごい体力ですね。大変な1年でした。

 とても濃密な1年でしたが、充実して楽しかったです(笑)

→インタビュー後編『翔べなかった蝶が翔んだ』へ続く

(インタビュアー・福福堂編集部)

2024年3月13日~18日、銀座三越で小柳優衣作品展が開催。入場無料。

腐蝕アーティスト 小柳優衣さんに聞く!『1日のルーティン』

 ここでは『腐蝕アーティスト』の一日をご紹介します。
 『腐蝕アーティスト』はいったいどんな生活をしているのか。
 普段はなかなか見ることのできない『腐蝕アーティスト』の或る一日を切り取ってみたいと思います。

6:45 起床
朝食、最低限の家事、保育園送迎
9:30 アトリエの清掃、教室準備、作品制作

12:00 昼食

13:00 作品制作

15:30 絵画造形教室

ちびっこたちの作品。かわいい。

19:00 夕食、風呂

愛猫に癒されます。

21:00 子どもを寝かせます

22:00 作品制作

過集中タイプですので、夜がはかどります。

2:00 就寝
時々こどもたちと一緒に21時に寝て体調のバランスをとっています

※日によってスケジュールはかなり異なります。
しかし画家として長く活動するためには規則正しい毎日を過ごさなければなりませんね。

(文 腐蝕アーティスト・小柳優衣さん)

小柳 優衣さんのプロフィール

小柳 優衣 / Yui Koyanagi

福岡県北九州市生まれ
私立自由ケ丘高等学校 卒業
折尾美術研究所 卒業
筑波大学 芸術専門学群 美術専攻 特別カリキュラム版画 卒業

〈 主な活動歴 〉
2022 個展「小柳優衣 腐蝕作品展 their place」銀座三越
    神戸アートフェスタ2022 神戸メリケンパークオリエンタルホテル
2021 個展 OTO gallery
    個展「鱗の唄」福福堂 @Hiltopia Art Square
2019 個展「蝶の雫」銀座三越
    個展「THE LIGHT」FCA
    学園前アートフェスタ 奈良市学園前エリア
2017 個展「錆色の森」FCA
2016 GINZA ART FESTA 松屋銀座
2015 ART OSAKA 2015 ホテルグランヴィア大阪
    個展「小柳優衣 銅版画油彩画展」 あべのハルカス
    カレンダー原画展「心ここに暦とともに」 銀座伊東屋 K.Itoya
2014 アールデビュタントURAWAの足跡 伊勢丹浦和店
2013 個展「fleurir!」 OTO gallery
    個展「Gene Note」 伊勢丹新宿本店
    個展「New Melody」 ギャラリー上原
2012 珠玉の女性アーティスト展 銀座三越

    lllline@shigagin 滋賀銀行長浜北支店
    個展「時雨蝶」 伊勢丹浦和店

〈 CV 〉

■Education
2010 Art & Design Special Curriculum Printmaking, Tsukuba University, Ibaraki
2006 ORIO Institute of Art and Design
    Jiyugaoka high school

■Solo exhibitions
2021 Solo exhibition, OTO gallery, Osaka
    Song of scales, Hiltopia Art Square, Tokyo
2019 Butterfly Drips, Ginza Mitsukoshi, Tokyo
2019 THE LIGHT, FUJIMURA CONTEMPORARY ART, Yokohama
2017 Rusty Forest, FUJIMURA CONTEMPORARY ART, Yokohama
2016 Until the time is filled, Nagano Tokyu, Nagano
2015 copperplate Prints and oil paintings, Abeno Harukas, Osaka
2013 New Melody, Gallery Uehara, Tokyo
    Gene Note, Isetan Shinjyuku, Tokyo
    fleurir !, Oto Gallery, Osaka
2012 Shigure-cho, Isetan Urawa, Saitama
    lllline, Gallery Uehara, Tokyo
    lllline, THE SHIGA BANK Nagahama, Shiga
2011 the traces of corrosion, Gallery Uehara, Tokyo
2010 TRIUMPHAL ARCH, la fontaine, Fukuoka

■Artfair
2022 Kobe Art Festa 2022
2019 Gakuen-mae ART FESTA 2019, Nara
2013ー2015
    ART OSAKA, HOTEL GRANVIA OSAKA,
2011 International Artexpo New York 2011, Pier94, New York

作品解説1 小柳優衣の作品『promised boundary』

『promised boundary』
小柳優衣
腐蝕銅レリーフ 2022
銅 / インク
450×350mm

腐蝕銅レリーフ作品。

 腐蝕銅レリーフは作者の哲学である『営みながら朽ち、朽ちゆくなかで作り出される』と技法・素材の面で親和性が高い。腐蝕銅レリーフ自体に残る腐蝕の痕跡は人生そのもの。また朽ちゆく中で作り出されるという意味で、腐蝕銅レリーフに『錆(さび)』による表現が持ち込まれることもある。

 建物の外装などで見かける浮彫の銅板レリーフとは、また異なる技法で制作される腐蝕銅レリーフは独特の魅力を持っている。
 腐蝕銅レリーフはそれ自体が1つの作品であるため版としての性質はなく、レリーフに近い存在といえる。
 細いニードルを駆使し繊細な描線を彫る小柳優衣の特長を十二分に活かすことができるのが腐蝕銅レリーフだ。
 この腐蝕銅レリーフは、銅版画制作とは異なるプロセスで腐蝕計画が立てられる。そうして制作された作品は独特の質感を持つに至る。
 作者はさらに腐蝕銅を緑青で錆びさせる。作者のSNSを見ていると日々試行錯誤し四苦八苦しながら技法を確立させようと情熱を注いでいる様子が伺える。
 おかげで作者のアトリエは、揮発溶剤の匂いに包まれている。
 「前は制作のにおい好きじゃなかったけど、今はママのがんばりのにおいがするから好き」
 そう娘から言われたと作者は照れながら語る。
 家族とのエピソードからも分かるようにその作品は作者の人生そのものだ。
 作者は、作品を通して社会への関わり方を常に考えている。

 この作品が制作されたのは2022年。ウクライナ戦争が悪化したショッキングな年である。作者は作品制作を通して、自他の境界について考察している。

 作者は画家となった初期の銅版画作品を制作していた頃から『自他の境界』について考察を重ねてきた。その根っこにあるのものは異なる価値観を持つ相手への愛だった。その愛は他者にも自己にも向いている。

 作者は『命とは循環すべき水を一時的に汲み置いた水槽だ』と語っている。海の上にいる2人は一時的に汲み置かれた水槽にすぎないとも言える。今は境界線を超えているけれどいずれ境界線をまたいで水に帰ることを知っている。生と死の境界線を認識している。その上下の境界線は2022年を意識するように強烈なコントラストで描かれている。

 画面中央で、海の上に座るよく似た妖精2人が手のひらで境界線を作っている。生と死の境界線と同様にどんな2人の間にも境界線はある。

『わたしたちとあなたたち、あなたたちとわたし、わたしとあなた。どこまでがわたしでどこからがあなた?それがわかるまで、これより先にはどうか踏み入らないでください。』

 作者は同時代の芸術家として、作品を通して様々な問題に対峙してゆく。そんな作者の生み出す作品を見逃すことは出来ない。

(作品解説 福福堂)

小柳優衣さんの展覧会情報

2024年3月13日(水)~18日(月)
銀座三越 本館7階ギャラリー
〔最終日午後5時終了〕

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