春の置き去りしと至宝のこころ by 齋藤悠紀

「入学式」というものが過ぎても桜が満開なんて久しぶりな気がしますね。 

 

 「生徒」や「学生」と呼ばれる人たちがガッコーへ行く季節。きっと新しい服を着て新しい環境で新しい人と会い、新しい日々を送るのでしょう。

 

 この季節は大抵こころが落ち着きません。「みんな」に「置いて行かれる感じ」がします。誰がどこに置いていくわけでもないのですが・・・。桜の満開についていけずに取り残される感じがします。

 

 ひとつひとつの個展を軽やかに乗り越えていけるのがかっこいい作家なのでしょうが、いちいち気合いを入れて、ぎりぎりまでああだこうだと制作を続けなくてはいけない現実の自分がいます。それだけやっても自分の展覧会は見るのが辛いことの方が多いのもまた現実。自らが思い描く理想の作品、展覧会にはほど遠い。やるほどその距離の果てしなさだけははっきりしてきます。少なくともそれが分かるだけ前進していると信じたいですが。

 受験や卒業制作、修了制作といった区切りのような時に凄く良い作品を見せてくれる友人作家を見ると素直に凄いな~と感心します。それはとても難しいことのはずだからです。

 

 「満点を取らなければいけない時」はある気がします。

 その時は80点でも90点でもだめで、「満点」以外は意味がないのです。普段何点かもほとんど関係がない。

 

 そのときの自分のベストを尽くしたのだからいいではないか。とはどうしても思えません。

 

 失われた空間は時間と違って取り返せないからです。普段は逆に考えていますが、失われるのは目に見える空間、触れる物体、それにまつわる想いの方なのだと思うのです。「時間がない」ではなく時間はいくらでもあるのです。

 この春は、個展の後にしなければならない細々したことをやりながら、季節の憂鬱と展覧会後の反動と個人的なことが重なり、時が凍りついたような2週間の中でそんなことを考えながら過ごしていました。

 

 

夕方急に思いついて東京国立博物館で開催されているボストン美術館 日本美術の至宝を見に行きました。
 閉館近い、遅めの到着でしたが平日の割りに込んでいました。
 最初の部屋からいきなり凄かった・・・。そしてその部屋が全部見た後もやっぱり良いと思いました。
 
 これが質の高い美術作品というものだよと言われて頭をハンマーで叩かれたような衝撃でした。ああ見に来て良かった!と小さくガッツポーズ。図版で見て知っている絵も多かったものの、やはり本物の力は凄まじい。ボストン美術館が大切に保管していたことに納得、感謝。
 部屋がぴんと張り詰めるような緊張感のある素晴らしい技術とそこから香ってくるような絵の「格」のようなもの。何も言葉がなくとも、奥深い思想を感じずにはいられないような圧倒的な説得力があります。
 少し落ち着いてくると、当たり前のことですがこんな絵を描いた先人がいたのかということに気付きました。不思議なことですが、しばらくのあいだ自分と同じ「人間の仕事」とは思えなかったのです。一生に一点でもあんなものが作れれば作り手冥利に尽きるだろうな~などと思いました。
 閉館ぎりぎりになって空くのを待ち、また最初の部屋に戻り、1点ずつ1対1で舐めるように見てきました。

 素晴らしいものを見ると不安定なこころが少し落ち着きますね。また行こうかな。

 ありがたや。

 

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